忘れられない一杯がある。ある区画の、あるロット。華やかで、酸が澄んでいて、後味が長い。自分でも驚くほど良かった。ところが翌年、同じ畑、同じ品種、同じ手順のつもりで作ったけど、あの味は二度と出なかった。何が違ったのか、説明できなかった。それがいちばん悔しかった。
もともと私は研究者だ。分からないことを「勘」で片づけるのが、どうにも落ち着かない。だから、見えないものを測れるものに置き換える。あの一杯を偶然で終わらせないために。それがData Bankの始まりだった。
コーヒーの味は、微生物が作っている。でも、その微生物がいつ、どれだけ働いているかは、目では見えない。匂いと勘だけでは追いきれない。私たちは、ロットごとに5つの数字を測って記録する。pH、Brix(糖度)、水分値、水分活性、乾燥日数。この5つが、見えない工程の「外から読めるメーター」になる。
pHは、発酵の速度計だ。糖が酸に変わるほど下がっていく。だから「今どこまで進んだか」が読める。私たちはこの下がり方を見て、底に近づく手前で止める。時計だけを見ていると、暑い日に行き過ぎる。
Brixは、生さの指標に見えて、そうではない。これは測り始めて考えを改めたところだ。発酵の進みと、実の熟れ具合を読む物差しとして使う。豆の生さそのものは、精製と乾燥の作り込みで決まる(このあたりは研究の節で詳しく書く)。
水分値は、乾燥の終点であり、焙煎士への手紙だ。11%前後まで、しかもロットの中で揃える。ここがばらつくと、焙煎する人が同じ豆でも安定して焼けなくなる。
水分活性は、期限の番人だ。水分値が同じでも、この数字が高いとカビや酸化が進みやすい。長い船旅を越える豆にとって、静かに効いてくる。
乾燥日数は、時間そのものを味の道具にする記録だ。速く乾かせば爽やかな生さ、ゆっくりならワインのような重さ。どれだけかけたかを残しておけば、来年また狙える。
「数字を取っても、味は結局飲まないと分からない」。長くそう言われてきた。でも近年の研究は、逆を示しつつある。パナマのスペシャルティで、飲料の理化学7項目からカップの官能スコアを予測した研究では、滴定酸度・可溶性固形分(Brix)・タンパクが官能と正の相関、そして興味深いことに、pHは逆相関だった。つまり「酸がしっかりしている(pHが低い)ほど、良い」。ナチュラルプロセスでは決定係数R²が約0.83、RPD 2.34という実用的な精度で予測できた(Vega et al., ACS Omega 2025)。生豆の物理特性や欠点・サイズからも、機械学習で官能ノートを言い当てられることが報告されている(Aguila-Rodriguez et al., Processes 2024)。
水分値の意義も具体的である。同じ焙煎温度・同じ時間でも、生豆の水分値が違えば色・密度・アロマが変わる。だから水分値を揃えることが、一定した焙煎の前提になる。水分値はNIR(近赤外)で迅速に測れ、その予測誤差はRMSEP 0.57〜0.80%まで詰められている(Reh et al., Foods 2017)。要するに、pH・Brix・水分値は「なんとなくの数字」ではなく、品質と焙煎の結果を実際に言い当てる数字だ。あの日の私が知りたかったことに、研究はかなり近いところまで来ている。
ここに、私たちの一番の縛りがある。「Data Bankで全ロットのデータを取り切れる速度でしか成長しない」。数量を追って記録が追いつかなくなるくらいなら、小さいままでいい。記録が飛んだロットは、良くても悪くても、次に活かせない。それは、あの再現できなかった一杯と同じことの繰り返しになる。規模を誇るより、全部のロットを説明できるほうが、私たちには価値がある。
たとえば 2026年1月に仕上げた Laos / Typica Washed は、発酵を pH 3.9 で止め、収穫したチェリーの Brix は 22.0、乾燥は 20日 かけて水分値 11.0%、水分活性 0.58 まで落とした(2026年1月26日測定)。
コーヒーの評価軸は、産地名から工程へ動いている。EU森林破壊防止規則(EUDR)のように、農地単位で「どう作られたか」を証明する流れも強まっている。ラオスで10年、栽培・精製・乾燥を自分たちの手でやり、その毎日を数値で残してきた。派手な蓄積ではない。測って、記録して、また作る。ただそれだけを繰り返してきた。でも、あの一杯をもう一度作れるようになるための道は、たぶんこれしかない。Data Bankは、その地味な意地の記録だ。
実際のロットの数値はDATA BANKに一覧にしている。pHの読み方は発酵を数値で管理する、水分値と水分活性は乾燥の科学へ。
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